2018年のノーベル賞は、物理学部門と化学部門のそれぞれで女性研究者が受賞し、物理学はマリア・ゲパート=メイアー以来55年ぶり3人目、化学賞は9年ぶり5人目ということで前例のない快挙として大変話題になった。その後、物理学賞でもう1人、化学賞でさらに2人が受賞して、 2021年までの科学3部門における女性のノーベル賞受賞者は生理学医学賞の12人と合わせて23名を数える。20世紀の100年間の女性受賞者が10名(11個のノーベル賞)であったことを考えると[1] 、今世紀の20年ほどで12名の増加は、女性の受賞ペースの加速を感じさせてくれる。しかし、2021年までの科学3部門の女性受賞者の比率は631人中23名で全体の3.6%に過ぎない[2] 。
数学も、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞で1936年の創設以来長らく女性受賞者が現れず、女性数学者の少なさを言うのに「フィールズ賞の受賞者に女性はまだいない」というのがキャッチ・コピーとして使用されたりもした[3]。ただし、2014年に米国スタンフォード大学のマリアム・ミルザハニ教授が受賞に輝き、この壁は突破されはした[4] 。ただ残念なことに、受賞からわずから3年で彼女の訃報に接することになってしまった。
その一方で、ここ数年映画界では、女性の数学者や物理学者を描き出して話題を浚った作品も記憶に新しい。『イミテーション・ゲーム』に登場する暗号解読の女性数学者ジョーン・クラーク、あるいは『ドリーム』(原題はHidden Figures)にはロケット・エンジニアのメアリー、計算部を統括するドロシー、そして天才的な数学能力を発揮するキャサリンという三人の黒人女性が登場して、人々を魅了した。これら2作品は、可能な限り史実に忠実に制作された映画であることから、ある程度信頼できるとすると、機会さえあれば、たしかに女性の中にも数物系の優れた才能の持ち主は存在するのだと確信できる。
前述『イミテーション・ゲーム』の主人公アラン・チューリングの名前を冠したチューリング賞Turing Awardは、1966年に創設された計算機科学のノーベル賞と評される賞で2020年までに74名が受賞しているが、女性は2006年のフランシス・アレン、2008年のバーバラ・リスコフ、そして2012年のシャフリラ・ゴールドワッサーの3人である。たしかに数は少ないがいずれも他の追随を許さぬ抜きん出た業績を上げている。さて数物系女性研究者の少なさを言うのはこの程度にして、歴史的に遡ってわが国の状況を見ていこう。
わが国に女性の大学生が誕生するのは、1913年のことである。当時の東北帝国大学初代総長 沢柳政太郎は、文部省からの圧力に屈することなく同年3人の女性、牧田ラク(数学)、黒田チカ(化学)、丹下ウメ(化学)の入学を許可した。女性帝大生が誕生したことは一大事件であった。しかし彼女たちに続く入学者が現れるのは10年後の1923年のことである[5]。すなわちかなり鳴り物入りで女性帝大生が誕生したものの、社会的反響のあまりの大きさも手伝ってか入学者が無いまま10年が経過した。他の帝国大学が門戸を開くのは1930年以降のことで、女性学士の内訳については図1の通りである[6]。戦前の「学位令」のもとで、東京帝国大学と京都帝国大学は女性の入学を一切認めていなかった[7]。
ここで注目したいのは、数学を専攻する女性帝大生の多さである[8]。女性の理系学生のおよそ半数は数学専攻であった。それでは物理学はどうであろう。わずかに4名でそのうち3名は北海道帝国大学で誕生している。こうした事態は、いかにして生じ得たのであろうか。
北海道帝国大学は、東北帝国大学と並んで多くの女子学生を輩出しているが、これを可能ならしめたのはやがて初代総長になる佐藤昌介の見識である。折しも東北帝国大学に女子学生3人が誕生した1913年末から彼は日米交換教授として渡米し、「婦人の勢力」の急速な進歩に大いに感銘を受けつつ、米国教育事情をつぶさに見て、さらに英仏、スイス等を巡って1914年8月帰国した[9]。1918年4月1日に北海道帝国大学農科大学が発足し、佐藤昌介は総長に就任した。以来女性の志願者は複数あったが、正規入学者とするには至らなかった。1928年2月6日北海道帝国大学第十回記念式で彼は、
1930年3月に「北海道帝国大学理学部規定」の入学資格に女子の資格者が明記され、同年、正科生として植物学科に吉村フジが入学を果たした[11]。東京女子高等師範学校を1927年に卒業していた。1936年には物理学科に横田ゆりえ、添谷晃子(そえやてるこ)の2名が、1938年には中山久子が入学し、いずれも日本女子大学校の出身であった。先の表で見たように、数学科には合計10名が入学した。日本女子大学校のほか東京女子高等師範学校からの進学者も多くいた。そして、ここからが少し特筆すべきことかと思うが、物理学で博士号を取得した本邦初の女性は添谷晃子で1946年のことである[12]。また数学で初の女性博士号取得者も同じく北海道帝国大学に学んだ桂田芳枝で1950年のことである。
添谷の詳しい伝記的背景はわからないが、日本女子大学校で共に学び、故郷を離れはるばる札幌で学んだ3人の物理学専攻仲間は、よき理解者であったことだろう。桂田は恩師森本清吾の妻(東北帝国大学理学部数学科出身)から多大な支援を受けたという。彼女は博士号取得後、北海道大学に奉職し、旧帝国大学初の女性教授になった[13]。
ここでは詳しく触れないが、理系の女子教育については太平洋戦争末期に、文部当局の方針は一変し女子の科学教育に力が入れられるようになる。帝国女子医学薬学専門学校の創立者額田豊は、いち早くこの動きに呼応して1941年帝国女子理学専門学校を開校することになった。同校は、数学科、物理化学科、生物学科からなるわが国初の科学の女子専門学校であった。英語が敵性語とされる中、津田英学塾も1943年理科を増設して津田塾専門学校と改称された[14]。こうして見てくると、数物系の女子の育成にいかにトップの英断が重要であるかがわかる。次によき仲間、エンカレッジする人物の存在である。資料としては学術的ではないが、理化学研究所で研究に励んだ女性科学者を描き出した映像資料『道もなき道をふみわけて~女性研究者の100年』によれば、様々な場面で女性研究者に助力を惜しまなかった男性として、菊池大麓、櫻井錠二、長井長義、鈴木梅太郎、真島利行、藤井健次郎らが登場する[15]。ただし菊池大麓については、後年違った一面がはるかに強調された。東京帝国大学総長、京都帝国大学総長を歴任し、文部大臣にまでなった彼は、女子高等教育不要論の急先鋒となっていった[16]。1901年第一次桂内閣で文部大臣を拝命した菊池は、翌年開催された高等女学校長会議における訓示で、女子の仕事は良妻賢母となることにあり、専門の学問を収める必要はないとした。ただし「女子と云ふ者は、兎角感情に走せ易いものでありますからして、・・・最も女子に理學の考を種々の點からして與へないといけないと思います」とも述べている[17]。どの程度の意図であったのかは定かではない。
海外に目を向ければ、男性研究者が積極的に女性を育て一流の物理学者を輩出した事例で有名なのは、X線結晶構造解析でノーベル賞を受賞した英国のブラッグ父子である。ウィリアム・ブラッグの弟子であったキャサリン・ロンズデールは優れた結晶学者で、王立協会最初の女性会員となった人物である。またブラッグの弟子のジョン D. バナールも恩師同様女性研究者を育て、弟子のドロシー・ホジキンは、女性として初めて英国にノーベル賞をもたらした[18]。また同じくバナールの弟子ロザリンド・フランクリンは、DNAの二重らせん構造の発見につながる重要な寄与を成し遂げた優秀な結晶学者である。残念ながらフランクリンは短命であったが、ホジキンは13人もの優秀な女性結晶学者を世に送り出した[19]。
歴史を通してあまりに男性社会と化してしまった数物系分野では、育成に意欲をもつメンターの存在がなければ、女性研究者は育ち難い。しかし、一歩踏み出す研究者の元では多くの数物系女性研究者は育ち得るであろう。
さきに物理学と数学で博士号を取得した女性について記したが、工学博士の誕生はさらに遅れる。女性の工学博士第1号は、立命館大学工学部電気工学科を卒業した後、大阪大学大学院で学び1959年に電子工学で博士号を取得した郷原佐和子である[20](図2)。理学博士が1927年に誕生していることを考えると、理学と工学への女性の研究参画におよそ30年の差があり、工学分野の女子学生の少なさは、この差が影響していると言えなくもない。最初のハードルを越えれば、徐々に女性博士は増加しており、ロールモデルの重要さを痛感させられる[21]。
さて数学であるが、「女子は数学苦手」というのは、理系女子の少なさを言う決まり文句であるが、実は数学専攻女性は必ずしも少数でないことを示したい[22]。まず理学部内の関係学科における女子学生比率を示した図3は、1968年以来約半世紀にわたって数学を専攻する女性比率が20%~25%をキープしてきていることを示している。この統計以前になるが、筆者も高校で2人の女性教員から数学を学び、数学と女性にそれほどの違和感はなかった。多くの場合、こうした女性学士比率が示され、たとえば40%を超える生物学に比較して女性学士の少なさが嘆かれるが、実数で比較してみることが重要である。
図4は理学部内における関係学科別の女性学士数を示したものである。これは毎年の学校基本調査から該当する数値を逐次拾って、1968年から積み上げたもので、一番左が数学であるが、なかなかの存在感を示していると言えないだろうか。近年理学部内で女性比率の高い生物学であるが、数学専攻の女子数は半世紀前からほぼ常に理学専攻の女性数で最大で、数の上では生物学専攻の女性数に近年ですら遜色はない。
戦前と違って、基本的に教育の機会は平等に開かれているのであるから、少し政策的な面も見てみよう。女性研究者に関する政策的動きは、1999年に「男女共同参画基本法」が施行され、2000年に「男女共同参画基本計画」の策定、2001年に内閣府に「男女共同参画局」の設置という一般的な男女共同参画社会の発展とともにある。国は2005年に「第2次男女共同参画基本計画」をまとめるにあたり、新たな取り組みを必要とする分野のトップに科学技術を置き、女性研究者の研究継続、採用機会の確保、研究環境の改善、理工系分野への進路選択支援などを掲げた。同年に発行された内閣府の『男女共同参画白書』も「科学技術の進展と男女共同参画」を特集テーマとしていた。こうした動きは翌2006年の「第3期 科学技術基本計画」の策定に反映され、女性研究者の新規採用数値目標も提示された[23]。
こうした環境づくりを踏まえ、文部科学省は同2006年「女性研究者支援モデル育成事業」を開始した。この事業は理系分野にかなり限定して開始されたが、次第に女性研究者一般に拡張されていったので、一定の成果を上げたとの評価はあっても、とくに数物系女性研究者の増加につながったとはみなされていないのが現状である[24]。
ハーバード大学ロザベス・カンター教授のCritical Massに倣えば、女性が研究環境に違和感をもつことなく伸び伸びと仕事に専念できるためには、少なくとも集団の30%程度を同性が占めるのが好ましいという[25]。そしてひとたびこれが実現されると、その集団は男女で協力して大きな成果を上げるようである。数学が比較的寛大に女子学生を受け入れてきたのとは対照的に、物理学でそうならなかった事例報告がある。というのは、戦前であるが、物理学科をめざして東北帝国大学を志願した女子学生に対し、大学側は暗室での実験を男子学生と組むことが出来ないという理由で断わり、数学への学科変更を提案したという[26]。1913年に女子学生の入学で先鞭をつけた東北帝国大学であったが、物理学科への女性の入学は約30年後の1942年まで見られなかった。
世間を驚かせた2018年の東京医科大学の女子学生入試差別も、上述の東北帝国大学物理学科における女子学生謝絶と同類であろう。教育の機会均等を貫くことを考えるのではなく、何か姑息である。原則遵守のために、暗室実験を可能にする工夫とか、女性医師が長く働き続けられる工夫をするのではなく、女性の権利を無視して済ますのである。
たしかに数物系の女性比率は諸外国でも大きくはないが、科学技術立国を標榜するわが国において、OECD加盟国中最下位というのはひどすぎる。トップが決断すれば、期待に応えることのできる女性は必ずいる。
女性の才能に特別な偏りがなければ、数物系であろうと人文系であろうと同じだろう。「なぜ少数か」と問われれば、是正に向けた歴史が浅いからであり、本気度が足りないからであろう。英米もけっして労せずして今日の状況を迎えたわけではない。各国の女性研究者増加政策にしっかり学ぶ必要があろう[27]。
- 1)マリ・キュリーが物理学賞(1903年)と化学賞(1911年)を受賞していることによる。なお20世紀の女性受賞者と社会的背景については以下を参照。小川眞里子2006「10人の女性ノーベル賞受賞者」日本エッセイスト・クラブ『うらやましい人』文春文庫 37-44頁。
- 2)The Nobel Prize:https://www.nobelprize.org/prizes/(2022年2月8日閲覧)を参考に算出。科学3部門における重複受賞者はマリ・キュリーの他に、ジョン・バーディーンが物理学賞を2度、フレデリック・サンガーが化学賞を2度受賞しており、重複して数えている。
- 3)S. J. セシ& W. M. ウィリアムズ 2013『なぜ理系に進む女性は少ないのか?:トップ研究者による15の論争』大隅典子訳 西村書店 2013年。翻訳本の帯に記載されている。
- 4)ミルザハニ教授は、1977年テヘラン生まれ、2004年にハーバード大学で博士号を取得、プリンストン大学を経て、2008年からスタンフォード大学教授(幾何学)。2017年7月40歳で乳がんのため死去。
- 5)小川眞里子 2021「日本のSTEMM分野における女性人材の歴史」『科学技術社会論研究』Vol. 19、43-52頁。
- 6)N. Kodate and K. Kodate, 2016, Japanese Women in Science and Engineering, Routledge, Pp. 26-27掲載のTable1.1より筆者作成。
- 7)1898年公布の学位令は、1920年に改正され、その後1947年3月に廃止されるまで継続した。したがって、新制大学は1948年からで、戦後2年間は戦前と同じ法律の下にあり、戦前戦後という区分けではなく学位令の廃止の前後で区分する手もある。なお、大学院の入学に関してはこの限りではなく、拙稿の表2を参照されたい。小川眞里子 2020「女性研究者進出の歴史」『GRL Studies』vol. 2、36頁。http://www.grl.kyodo-sankaku.provost.nagoya-u.ac.jp/wp-content/uploads/2020/07/GRL-Studies-Vol.2.pdf(PDF:3.38MB)
- 8)18世紀の英国では多数の女性が数学を楽しんでいた。三浦伸夫 2015「楽しみとしての科学—一八世紀英国の女性と数学」『アスティオン』第82巻、124-137頁。Ogawa, M. and Frehill, L., 2015, “Historical Perspectives on Women in Chemical Sciences, Computer Science, and Mathematics,” Pearson, Jr. W., Frehill, L. M. and McNeely, C. (eds.) Advancing Women in Science: An International Perspective (New York, NY: Springer) pp. 33-36; Costa, S. 2002, “The Ladies’ Diary: Gender, Mathematics and Civil Society in Early Eighteenth-Century, Osiris 17: 49-73.
- 9)山本美穂子 2008「佐藤昌介の女子高等教育論:北海道帝国大学における女性の入学をめぐって」『北海道大学大学文書館年報』第3号18-42頁。
- 10)同上 38頁。
- 11)山本美穂子2012「北海道帝国大学理学部へ進学した日本女子大学校卒業生たち」『北海道大学大学文書館年報』第7号、43頁。
- 12)女性の理学博士号取得第1号は保井コノ、第2号は黒田チカで、それぞれ1927年、1929年に取得している。保井は生物学、黒田は化学専攻で、物理学や数学は戦後の取得になる。添谷については、河野隆介 1980「添谷晃子教授抄歴に寄せて」『防衛大学校理工学研究報告』第18巻 第3号 169-170頁; 山本美穂子2012参照。
- 13)西條敏美2009「桂田芳枝」『理系の扉を開いた日本の女性たち』新泉社 209-217頁。
- 14)古川安 2022『津田梅子』東京大学出版会 「第五章 塾から大学へ」135-143頁。
- 15)理化学研究所は現在、日本有数の女性研究者在籍率を誇っているが、それは創立以来の長い努力によってもたらされたものであり、歴史の裏打ちがあったからこそと納得させられる。
- 16)古川安2022(前掲書)「第四章 英学塾の裏側で」102-103頁を参照。
- 17)桜井役 1981『女子教育史』土屋忠雄解説 日本図書センター (初版1943年)114-115頁参照。
- 18)バナールは、『歴史における科学』の4巻本でも知られる結晶学者である。
- 19)Maureen M. Julian, “Women in Crystallography,” in G. Kass-Simon and Patricia Farnes ed., Women of Science: Righting the Record (Indiana University Press: Bloomington, Indianapolis, 1990) pp. 335-383.
- 20)郷原に関する初出は、Ogawa, M., 2017 “History of Women’s Participation in STEM Fields in Japan,” Asian Women, vol. 33, no. 3, 65-85. 彼女の博士論文は「非線型共振回路の研究」で、『読売新聞』昭和34年3月20日に記事が掲載されている。
- 21)郷原のあと、1961年に日下あこ、菅野信子、小川健比子が東京大学、野崎洋子が京都大学で工学博士に。1962年に上中文子が大阪大学、そして加藤由利子、田宮寿美子、下河辺千穂子、林正子、竹中はる子が東京大学でそれぞれ博士号を取得している。さらに佐藤公子が東京工業大学で工学博士。主としてCiNiiの日本の博士論文の検索による。これらもロールモデルの誕生の重要性を窺わせる事実である。
- 22)小川眞里子2016「科学と女性研究者」『ジェンダー研究』(東海ジェンダー研究所)第18号 113-128頁。https://libra.or.jp/images/gstudy18.pdf(PDF:3.64MB) 日米の女児に人気の人形(リカちゃんとバービー)が、いずれも数学苦手の設定になっていたのは興味深い。
- 23)小川眞里子2022「あとがき」河野銀子・小川眞里子共編著『女性研究者支援政策の国際比較』明石書店 201-205頁。数値目標は、自然科学系全体として25%(理学系20%、工学系15%、農学系30%、保健系20%)とする目安が盛り込まれた。
- 24)横山美和ほか5名 2016「日本における科学技術分野の女性研究者支援政策」『ジェンダー研究』(お茶の水女子大学ジェンダー研究所)第19号 175-191頁。
- 25)金谷千慧子 2011『「働くこと」とジェンダー』明石書店 86-87頁。
- 26)山本美穂子2012(前掲書)50頁。
- 27)河野銀子・小川眞里子共編著2022(前掲書)。