ジェンダーと算数・数学教育
お茶の水女子大学は、明治8(1875)年にモルレ-(David Murray)(数学者、教育学者;文部省招聘学監)の提言もあり女子教育の重要性から設置が決められ、明治9(1876)年11月29日に皇后陛下(後の昭憲皇太后)のご臨席の下に開校した東京女子師範学校を源とする大学である。
筆者がお茶の水女子大学附属図書館で、日本数学教育学会創立百周年となる年も念頭にし、2018年2月に開催した展示会「女高師縁の教員と蔵書でみる数学教育―江戸から現代まで-」の資料を元に、歴史的な観点から、「ジェンダーと算数・数学教育」に関わりがあると考えられる東京女子高等師範学校教官等について、展示記録に加筆修正する形式で解説をすることとした。
なお、歴代の数学科担当教官は数学において男女の能力差があるとは考えず、男女同等の教育課程とする方向に向けて活動していたことが、(日本数学教育学会の前身の)日本中等教育数学会雑誌やお茶の水女子大学百年史から読み取れる。
研究代表者の瀬沼花子教授には、貴重な機会を与えて頂き感謝する。
徳島に生まれ、12歳で徳島中学校に入り和算家武田丑太郎の薫陶を得て首席で卒業、京都第三高等中学校に入り河合十太郎に導かれ卒業後、明治26年(1893)東京大学理科大学数学科に入学、菊池大麓、藤澤利喜太郎両教授に習うが、病気療養のため1年遅れ、明治30年(1897)に高木貞治、吉江琢児と同期に卒業し大学院で藤澤利喜太郎の下で数理解析の研究を行った。東京高等師範学校講師となったが、翌年、京都大学理工科大学助教授、翌年これを辞し松山中学校教諭となるが、明治34年(1901)にふたたび東京高等師範学校講師となり、明治40年(1907)に教授となったが、明治44年(1911)1月に東北帝国大学理科大学が創設されると同2月に兼任教授、4月には専任教授として数学第一講座を担当した。大正2年(1913)に大学に初めて女子学生3名が入学した際には牧田らくの指導教官となった。
大倉書店から数学叢書を刊行、東北数学雑誌を創刊し、自らも多くの書籍、論文を発表した。日本中等教育数学会初代会長に就任し4期8年を務め、多大の功績があった。大学内でも要職を経験し、昭和4年(1929)に教授職を辞し名誉教授となり講師として和算研究に専念しつつ、講義は昭和9年(1934)迄続けた。昭和9年文部省視学官となり各地の高等学校を視察、昭和10年(1935)10月松江高等学校視察の折に病に倒れた。
名古屋に生まれ、第一高等中学校を経て、東京帝国大学理科大学を卒業し大学院に進学するが退学し、1898年に東京高等師範学校講師、翌年教授となり、1929年東京文理科大学教授。日本中等教育数学会設立建議者の一人で、同会第三代会長にも就任し5期10年務め、同会の活動も含め日本の戦前の算数・数学教育の方向性を主導した。3度欧米に留学し、数学、数学教授法を研究した。1936年のオスロでの国際数学者会議で「日本における数学教育最近の傾向」について報告した。昭和15年(1940)退官、名誉教授。この間東京物理学校講師、東京女子大にも出講した。様々な教科書も執筆し、わが国の数学教育界の発展に多大な貢献をした。
岡山県士族で、どういう教育を受けたかは不明だが学制頒布後の小学校教育を受けたであろう年代で、師範学科取調員として東京師範学校にいたときの教育学口授筆記から「教育新論」を岡山師範学校から発行し、岡山県師範学校兼中学校助教諭として、小学校での算術教授研究をし「実物算術教授」を著し、新潟県尋常中学校教諭、校長を経て東京女子高等師範学校に赴任した(高等女学校教諭(1902~1905))。女学校や女子師範学校用の算術、代数、幾何の教科書や算術演習書を執筆し女子の数学教育に尽くし、学内で評議員、数学主任、教務主任の要職を務めている。明治45年(1912)の第5回国際数学者会議の数学教育部門で藤澤利喜太郎が報告するため、明治43年(1910)に文部省に設置された藤澤を委員長をとした数学教科調査委員会委員として女子高等師範学校数学教科調査報告を執筆し、彼の指導の下に堀口きみこ等が高等女学校および女子師範学校数学教科調査報告を執筆している(林鶴一が「中学校教員の養成の報告」の中でいろいろの意味で強い融合主義を主張している。ところが森岩太郎は、ごく軽い程度の融合はよろしいけれども純然たる融合はいけないと主張している。)。大正7年(1918)12月20日から24日までの五日間、東京高等師範学校で開催された「全国師範学校中学校高等女学校数学科教員協議会」では議長の一人となり、この協議会で、日本中等教育学校数学会(日本数学教育学会の前身)の設立を決めたが、その発起人五人の中の一人であり、庶務部幹事(1919-1925)を務め学会運営にも尽くした。年会では高等女学校部会の報告を担った。
日本中等教育数学会第3回総会記事 協議題記事 Ⅰ
「高等女学校教授要目改正案」
1907年、東京女子高等師範学校理科卒。附属高等女学校教諭(1907~1929)として、数学、理科、修身、体操担当、学年担任などを務める。1921年から教授、生徒監を兼ねる。1929年に初めての女性文部省督学官に就任し生徒監を兼ねた。日本中等教育数学会の発足前後に、女子の数学教育の時間数増と内容の充実を訴えた。
(一例として記録を挙げると次のものが挙げられる。
日本中等教育數學會雜誌第3回總会記事 談話題概要 (2)
「實科高等女學校ノ数学ニツキテ 」 )
学会設立時から庶務部幹事(1919~1939)を長く務めた。森岩太郎の指導の下に1912年の数学教科調査報告では高等女学校及び女子師範学校数学教科調査報告を分担し、1936年の数学教科調査会報告「日本における数学教育最近の傾向」の青年学校の部分を担当した。
1911年に東京女子高等師範学校理科卒業、その後、黒田チカらとともに女性として初めて東北帝国大学理学部に進学した。指導教官は林鶴一教授であった。母校で講師も務め教育研究を行った。画家の夫に尽くすため退職したが、研究は続け論文も発表した。
岐阜県生まれ、1928年に東京女子高等師範学校理科卒業。1928年から東京女子高等師範学校附属高等女学校助教諭、教諭に進み、新制大学になって学制改革で新たに設置された附属中学校及び高等学校教諭を経て、中学校教諭として附属学校の数学教育に尽くした。昭和33年(1958)1月に教頭制が施されると初代の教頭として新制中学校の管理運営によく校長を補佐し、教育の充実、後進の指導に寄与した。昭和37年(1962)には教頭併任は解かれたが、昭和44年(1969)3月定年退職まで教諭として指導的役割を果たした。また、堀口きみこの後任として、日本中等教育数学会の庶務課幹事(1939年~1950年)として学会運営にも尽力した。
(在職期間は短期間で 1920~1923年(大正10年度は教授兼ねる教諭、大正13年10月段階で嘱託、東京商科大学教授に転出)
大阪で生まれ、尋常小学校卒業後、17歳まで大阪にいたが、中等学校卒業試験に合格し上京し、東京高等商業学校(現在の一橋大学の前身)に入学したが翌年に第一高等学校に転入した。大正元年(1912)に同校を卒業し、東京帝国大学理学部数学に入学し大正5年(1916)に卒業、1年間大学院で幾何学の研究を行う。岐阜県立中学校、東京府立中学校教諭を経て、東京女子高等師範学校教授に就任し、中等学校教員養成に従事し、教科書「代数学捷径」を執筆したり,日本中等教育数学会雑誌に数学教育の課程の研究成果を発表し、女子数学教育課程の設定に尽力した。次のような記録がある。
- 日本中等教育數學會雜誌 3(3) 1921-07-08 p.73-75
高等女學校ノ數學ニ就キテ - 日本中等教育數學會雜誌 4(4) 1922-10-18 p.172-173
高等女學校高等科數學科教授要目(對案ハ京都府立第一高女ノモノ)
1923年12月に東京商科大学(現在の一橋大学の前身)予科教授とおなり、純正数学、応用数学(保険数学)、数理統計学を担当した。1927年から3年余、文部省派遣でドイツ、フランス、アメリカに留学、この間の1928年にボローニャで開催された第万国数学者会議に出席している。商業教育のための教科書「保険数学」などを執筆し、1933年に東京商科大学学部講師を兼任、1936年から1年余に大学派遣で欧州に出張した。1944年に湘南工業専門学校教授、1948年に神奈川大学教授になり定年を迎えた。この間に、陸地測量部嘱託、東京物理学校、東京女子大学、日本女子大学附属高等学校、立教大学、東京鉄道教習所専門部でも講師として講義をした。1920~1929に庶務部幹事を務めた。
(在職期間は、1926年~1952年(大正14年教諭、後に教授)
明治20年(1887)新潟県生まれ、大正3年(1914)東京高等師範学校数物化学科卒業、その後、長野師範学校教諭、東京府豊島師範学校教諭を経て、大正10年(1921)東京女子高等師範学校に数学科担当教諭として赴任、大正15年(1926)同校教授兼任、昭和6年(1931)同校附属高等女学校主事、昭和7年(1932)同校教授、教諭兼任となる。昭和22年に高等女学校が附属中学校と高等学校に分かれ設置された後も引き続き両校の主事を兼ねた。昭和27年(1952)お茶の水女子大学名誉教授。附属高等学校主事として、大塚に新校舎建設に際し、設計、グラウンド整備等を行い、志賀高原の山小屋建設、勤労教育のために東村山に農場を作り実施、戦争中は学徒動員令が出る前に陸海軍と交渉し全国初の学校工場として、女子生徒に最も適当な作業が学校できるようにし、空襲がひどくなると、さらに軍やその他当局と交渉され(小学生以外は認められていなかった)集団疎開を実現し、その状況を見回り、終戦になると早速に引き揚げの手配をし無事に皆を帰京させ、新制中学校発足に際しても中学校校舎新設、グラウンド整備も行うなど、附属高等女学校及び新制学校のために献身的に尽くされた。
数学科教諭として、熱心に授業をした。次のような記録がある。
「終わりに是非皆さんのお耳に入れて置き度いことは女子の数学に 対する興味ということです。従前の如く算術のみをやって居て女子 は数学に対する興味を有せぬと云うのは甚だ無理の話である。現に 本会の要目の下に授業して見れば彼等は非常の興味を以て学んで居 るのである。諸君の中にも多数其の経験を以て居らるる方があると 思いますが実際彼等は大いなる興味を有して来ました。其の興味を持 つところには彼等の消化力が十分あることを認めざるを得ないので す。女子の数学的能力について極端なる論を時々耳に致しますが甚 だ当らぬことを立証して居ることを申し上げて置きます。
次ぎに教授要目には便宜上教材を算術、代数、幾何と分類してあ りますが之れが教授に当っては高等女学校は高等女学校の数学とし て組織されねばならぬと云うことについて附言させて戴きます。高 等女学校では幸にも現在の中学校の如くに高等学校や専門学校の入 学試験の為めに心ならずも普通教育としての中学校の数学を教授し て居られぬと云う如き外部的故障を有せず女子教育としての数学各 科の教材の配合連絡、実験実測の実習、幾何学の直観的機能的取扱 の導入等女学校数学を組織する上に重要なる事項が自由に考えられ る境遇にあるのです。諸君と共に旧習より脱し女学校数学の組織を 研究し以て女子教育の数学科の使命を達せんことを願う次第です。」
- 日本中等教育數學會雜誌 8(4) 1926-06-23 p.249-253
高等女學校ニ於ケル實驗實測ニ就テ
教育実践経験を下に恩師の国枝元治との共著として算術、代数、幾何の教科書を執筆している。
日本中等教育数学会においては庶務部幹事(1929-1948)、評議員、理事を長く務め、最後の2年は名誉会員、顧問であった。学会が日本数学教育会と改称してからの雑誌、數學教育 8(5) 1954 p.155、および算数教育に「名誉会員 顧問 故中沢伊与吉先生を弔う」という会長杉村欽次郎の記事がある。「名誉会員顧問中澤伊與吉先生は、かねてより健康を害され、ご静養中であったが、ついにその甲斐なく、本園1月31日にわかに弱さられた。会員日動の深く悲しむところである。先生は本会にとって、創立以来の功労者である。初めは創立発起人として、次いで評議員また理事として三十年の長きにわたって会の運営に参画せられ、その間あるいは総会準備委員長としてあるいは庶務幹事として、煩瑣な皆無にあたられた。特に戦時中及び戦後の困難な時期に、庶務主任として当時の阿部会長を扶けて、本会復興発展に尽くされた功績は大きい。(以下略)
なお、1936年の数学教科調査会報告「日本に於ける数学教育最近の傾向」、その英訳"Summary reports on present tendencies in the development of mathematical teaching in Japan","Divisional reports on present tendencies in the development of mathematical teaching in Japan"の高等女学校の数学教育の報告を岩間緑郎と中澤が、青年学校の数学教育の報告を堀口が担当している。
(在職期間は10年ほど(1933.9.9講師~1942)で、数学科教育のレベルを上げた。「黒田成勝が東京帝国大学助手から起用されて、昭和八年に教授として東京女子高等師範学校に着任し、以来数学の中心はこの人に移ったもののようである。もともと僧籍の出である黒田の重厚・誠実な人柄は、生徒から信頼を勝ち得たばかりでなく、多くの同僚からも支持された。数学は東京帝国大学の高木貞治教授に師事し、整数論および数学基礎論の研究に専念した。当時「岩波数学講座」に執筆した基礎論についての解説は好評を博している。この頃の生徒によって口ずさまれた歌のなかに〝黒田先生はヨッソラホイ(または、どんぐりまなこでヨッソラホイ)/口をなめなめヨッソラホイ/アイデンティカリーにがっちりしてるよ/ヨッソラホイあらヨッソラホイ〟というのがある。がっちりした講義ぶりが察せられる。」(百年史、授業風景の写真がある)。名古屋大学理学部創立に際し数学科教授として転出した。高木貞治の娘婿。
日本中等教育数学会で庶務部幹事(1937~1938)を務めた。
緑表紙の「尋常小學算術」教科書がが出版され始めた頃から中学校数学科要目を改正することが日本中等教育数学会の協議題になり、緑表紙教科書出版が完成した昭和15年(1940)には中学校の科学教育を改正する必要が認められ、中等学校の全般的改正を目前に控えながら、数学・理科だけを切り離して先に改正することとなって、昭和16年(1941)2月からこれに着手することになった。数学では、東京女子高等師範学校の黒田成勝、東京高等師範学校附属中学校の田中凌雲、文部省からは下村市郎、前田隆一の両学官と塩野直道が加わり、翌年1月に原案が出来上がり、3月に中学校教授要目の刷新が公表された。
東京都に生まれ、昭和11年3月東京帝国大学理学部を卒業し、同年4月同大学院に進み、同年十月退学し、同時に東京帝国大学助手、昭和14年6月多賀高等工業学校を経て、昭和17年7月東京女子高等師範学校教授、昭和24年6月お茶の水女子大学教授となり、昭和51年3月お茶の水女子大学を定年にて退職されるまでお茶の水女子大学の教育・研究に努め、昭和51年5月にお茶の水女子大学名誉教授の称号を授与され、同年4月から昭和55年7月まで日本大学理工学部教授を務め、平成22年4月2日に没した。
研究者として数学(関数論)の分野において優れたを挙げ、数学界の発展に功績があり、我が国高等教育及び学術の進展に著しく貢献され、また、永年にわたり教育者として後進の指導育成に尽力し、幾多の女性研究者・教育者を養成した。すなわち、東京女子高等師範赴任後、前任者黒田成勝氏の精神を継いで、男子学生と同じ水準の教程に沿って数学を講義し、生徒達のなかに眠っている数学的感性を目覚めさせ、数学に情熱を注ぐ中学校・高校教諭を育て、特に、才能に恵まれた生徒に対しては、研究者の道へと駆り立てた。東京女子高等師範学校がお茶の水女子大学に移行しても、数学教室の中心人物として、一流のスタッフを集め、学生が高水準の数学教育を受けられるよう心がけた。優秀な女子学生が結婚や子育てで、研究を放棄していくのを見るにつけて、できるだけ早い時期に研究の最先端にたどりつけるようにと、解析学を専攻する学生には、当時、研究され始めた関数解析を専攻させ、自分もその分野の研究を始めた。さらに、当時は、お茶の水女子大学では秘書的存在だった女性助手を研究助手と位置付けた功績は大きい。(後年、沢島郁子、小山敏子、渡辺ヒサ子はお茶の水女子大学教授となっている。)
さらに、大学の管理運営その他教育行政面においても、高い理念と優れた指導力をもって誠心その職にあたり、お茶の水女子大学においては、理学部長あるいは評議員として大学の充実発展に尽力し、研究体制の整備充実にただいな寄与をした。
加えて、理学部選出の附属学校委員として、附属幼稚園、小学校、中学校、高等学校の運営に携わり、算数・数学の初等、中等教育の向上に寄与した。小学校では、全国規模の教員向け講習会の講師を務め、中学校及び高等学校における数学教育については、文部省の教材等調査研究会(中学校高等学校数学小委員会)委員として学習指導要領の改訂に参画し、数学教育の向上に寄与した。
他方、日本中等教育数学会では編集部幹事、日本数学会において評議員を務め関数論分科会を中心として学会運営に参画し、創刊間もない学会誌に論説、寄書、書評を執筆し、編集委員としても雑誌作成に貢献し、日本数学会年会を旧帝国大学以外で初めてお茶の水女子大学と東京教育大学で共催開催し、あるいは学会賞受賞候補選考委員等を務める等学会の発展に努めた功績も多大である。
文部省短期海外研究員として、ヨーロッパに渡り、北欧、フランス、ドイツ、イギリスのポテンシャル論研究者と交流し、日本にもどってからは、M.Brelot, G.Chouquetなどの世界的な研究者をつぎつぎに日本に招へいし、日本各地で講演していただき、最先端の理論を日本の研究者たちに紹介し、若い数学者たちを振るい立たせ、また、外国で研究する機会を与えたことも、外国人との交流が少なかった当時としては評価される。
昭和37年に出版された「集合と位相」という著書は、位相空間に関する図書が、当時、ほとんどなかったこともあって、面白くてわかりやすいと、学生や研究者によく読まれ、版を重ねて25版以上となり、現在も出版されている。この著書が人々に与えた影響は大きい。